第四十五話「美音倶楽部」


第四部「美音倶楽部」



第一章『collaboration』

 98年5月某日、週末には来店客でにぎわうこのフロアーも今は私一人だけ。これ からしばらくは、たっぷりとおいしい音楽を味わう時間だ。スピーカーはアイドロン、 パワーアンプはジェフロウランドのモデル9Ti、プリアンプは同じくコヒレンス2、 この間のインターコネクトはカルダスのヘックスリンク・ゴーデン5Cのバランスケー ブル。アナログのフロントエンドはロックポートのカペラ2。レコードをプラッターに 吸着させるエア・バキューム、ターンテーブルをフローティングさせるエア・ベアリン グ、システム全体を浮上させるエア・アイソレーションとフルオプション化したもので ある。そして、シリーズ7000トーンアーム、ピックアップカートリッジはカルダス のHEART1、フォノイコライザーはジェフロウランドのケイダンス、アームからケ イダンスまでのフォノケーブルと、ケイダンスからコヒレンス2まで、すべてカルダス のヘックスリンク・ゴーデン5Cである。さて、ここで意外に思われるかも知れないの が、カルダスのカートリッジHEART1であろう。これはスイスのベンツマイクロ社 が発売しているルビーを原形にカルダスのケーブルで内部配線を行なったもので、日本 価格は35万円で私も既に数本販売しているものである。アメリカのオーディオ雑誌に は紹介されているが、日本では大々的にはリリースされていない。多くのカートリッジ を試してきた私も大変高く評価しているカートリッジの一つである。

 この時期には、導入当時に第一印象を受けたアイドロンのセッティングが変化してい た。単純に約1メートル置き場所を後退させ、レンガタイルで仕上げられたステージの 上に移動させたのである。しかし、この変化は大きかった。アイドロンの高域が音のハ レーションを起こしたように強調され、スピーカー直下の床の材質変化による反射波の 増加からフォーカスが出にくくなってしまったのである。そこで、アイドロンの底部に 直に使用していたアペックスカプラー(アヴァロンのスパイク)に、米国のJ1プロジ ェクトのCR3612A/4Pを本体との間にはさみアイソレーション効果を施す。ピ ンポーン!である。高域のギラつきがおさまった。次に、QRDシステムのアブフレク ター(吸音材)をアイドロン後方のレンガタイル面を隠すように配置する。ウン、これ でいい。実は、このJ1プロジェクトの製品にもちょっとしたエピソードがある。輸入 元の株式会社ナスペックの担当者が、「こんな物をはじめようと思うんですが。」とサ ンプルの青いシートを持ってこられたのは昨年のことであろうか。素材感と目的を理解 し早速試聴した結果、「これは便利だ。うまくコントロール出来るね。」と評価を下し た私にどんなサイズで製品化したらいいでしょうか、と尋ねられたのである。私はおそ らく日本で最も多くのジェフロウランド製品を販売してきたという自負がある。コヒレ ンスだけでも通算で40台以上を販売してきたのではなかろうか。そして、ジェフロウ ランドのアンプに付けられている脚部は直径37ミリのへこみががあり、そこに付属の ソルボタン・ゴムやアペックスカプラーをはめこんでセッティングするようになってい る。そこで、私は提案した。「このジェフロウランドの足にピッタリ合うサイズにすれ ばどうですか。パワーアンプやコヒレンスも重ねて使っているユーザーも多いから、私 としても売りやすい設定ですよ。」ということで、直径37ミリの円形にカットされて 発売されたのが先程のCR3612A/4Pである。3,600円という手頃な価格な ので、ジェフロウランドに限らず色々と応用できるので推薦しておきたい製品である。

 さて、最初に取り出したレコードは、アルテュール・グリュミオー/ソリスト・ロマ ンド/アルバト・ゲレッツ指揮による、バッハのヴァイオリン協奏曲第一番イ短調であ る。私がダイナミックオーディオに入社した一九七八年の録音であり、LPしかなかっ た当時から試聴盤として数えきれないくらい聴いてきたレコードである。演奏者のグリ ュミオーは一九二一年の生まれとされているので、彼が五七歳のときの録音ということ になる。近代注目される若手ヴァイオリン奏者の録音は、音階の移行を大変なスピード で繰り返す技巧が印象に残るのだが、このグリュミオーの演奏は趣が違う。職業的関心 事から多くのクラシック音楽を聴いているが、私はクラシック音楽に造詣が深いわけで はない。むしろ、お客様からクラシック音楽に関しては色々と教えて頂いているところ が多い。この録音は超ハイファイという解像度最優先のものではないのだが、システム の分析にあたっては私のリファレンスとなっているものである。まず、ここでアイドロ ンが描く三次元的な空間定位にひきつけられる。グリュミオーをとり囲むソリスト・ロ マンドの各パートが各々の配置を後方に展開させ、楽団を俯瞰したときの状態を見事に 聴き手にイメージさせるのである。そして、特筆したいのはアイドロンが聴かせてくれ るヴァイオリンの鮮明な描写力である。セラミックの中高域ユニットは、メタルドーム ・トゥイーターのような切っ先を光らせるわけでもなく、シルクコアのソフトドーム・ トゥイーターのように楽音のエッジに微妙なラウンドをつけて角を取ったイメージでも ない。視覚的には鋭角なコーナーエッジを見せつけながら解像度を高め、その鋭いコー ナーの先端に触れると指先の皮膚が先端に押し付けられてチクリと感じる固い質感では ない。尖んがっていながら柔軟性を帯びたヴァイオリンの再現性とも言える絶妙な歯応 えをアイドロンは味あわせてくれるのである。

 次に、私の好奇心はトーンアームのシリーズ7000に指先を運ばせた。図4の(13) で紹介しているアーム・ハイトの調整ダイヤルである。というのは、私が入手したカル ダス/HEART1の英文解説書には、バーチカル・トラッキング・アングルに関して 若干アームの先端を上げる、もしくはアーム後方(支点部)を下げて微妙にカートリッ ジを上向きにするよう記載がある。これを試してみたかった。アームリフターのバーが ある関係で、肉眼ですぐにわかるほど大きな傾きを付けることは出来ない。アームの基 部でせいぜい五ミリ程度の上下動であろう。まずはダイヤルを時計回りに回しきってア ーム・ハイトを最低レベルに下げる。「アレーッ、こりゃまた変わるね。良く言えば高 域が華やかでエネルギッシュになる。グリュミオーが二〇歳位若返ったようだぞ。しか し、これだけじゃわからないなぁ。」と、オーケストラを聴くことにする。キングレコ ードのスーパーアナログシリーズから、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指 揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるアルベニス「スペイン組曲」の冒頭、「 セビリャ」に針を落とす。この曲は三拍子の速いテンポの舞曲で、カスタネットがステ ージ上で軽快なリズムを刻んでいるのである。このカスタネットがオーケストラ全体と どのような位置関係を聴かせるかがチェックポイントなのである。ダイヤルを何度も回 しながら、面倒でも同じ演奏を執拗に聴き比べる。「ウーンッ、やっぱりそうか、基本 は基本で昔と同じだ。」と結果が飲み込めた。単純に言えば、アーム側を下げるとカス タネットの響きは強くなり、音量も大きくなったように感じられ、まるでステージの手 前に歩いてきて叩いているかのようである。そして、徐々にアーム側をあげていくと、 カスタネットは管楽器群の後方にスーッと引き下がり、その分ホールエコーの含有率を 高めて余韻を多く残すようになる。「こっちだね。弦楽器と管楽器がフォルテに達して も刺激成分をちらつかせることもないし、先程のグリュミオーのように俯瞰したときの イメージが正確に出てるね。結果的には昔経験したノウハウと同じ反応の音質変化だ。 しかし、さすがだなぁ。わずか四、五ミリの高さ調整がこれほど音に表れるとは思わな かった。」アーム・ハイトの変化が実に鮮明に聴きとれる要因はと考え、バキューム・ スタビライザー、エア・ベアリングとエア・アイソレーションとカペラ2がフルオプシ ョン化された威力をまざまざと見せつけられた思いである。

 次はジョージ・ベンソンの「20/20(トゥエニー・トゥエニー)」というアルバ ムを引っ張り出してきた。仕事で使っているLPのほとんどは自宅から持ってきた自前 の物なのだが、ポピュラー系というと流行遅れもはなはだしい感じで、これも時代の変 節というものだろうか。A面のトップ「ノー・ワン・エモーション」はパワフルなドラ ム・マシンが炸裂するきわどい演奏を聴かせる。リズミックなバックにジョージベンソ ンのヴォーカルが冴えわたり、パティー・オースチンのバックコーラスが厚みを加える 。「これがLPの音か。」と一瞬戸惑うほどの見事な定位が、私の求める音量でもまっ たくゆらぎもせずにピタリと決まる。「漂うような浮遊感があってこそ本物のアナログ だ。」と思われる方はがっかりするかもしれない。リン、トーレンス、オラクル、など 、フローティング構造をもちターンテーブルとトーンアームを指でつつくとフワフワッ と浮き沈みするプレーヤーを使われている方は、この指向性を大切にしているかもしれ ない。しかし、アメリカのイメディアや日本のセイコーエプソンが発表しているシグマ シリーズなど、一切のフローティング構造を否定しているアナログプレーヤーが評価を 高めているのも事実である。それらに共通しているのは、今私が聴いている定位の鮮明 さと大音量でも崩れることのないディテールの維持ということになるだろう。浮わつく ことのない鮮烈なインパクトは、まさに空気を叩くという印象で聴く者に迫ってくるの である。ロックポートの素晴らしいところは、ソフトな楽音はよりソフトに、ソリッド でハードな演奏はよりハードに、という演奏のあり方に、プレーヤーの演出効果を加味 しない再生音を聴かせるところであろう。つまり、どんなジャンルの演奏を聴こうと、 そのプレーヤーの個性が、演奏家あるいはミュージシャンの感性をマスキングすること がないのである。

 爽快な聴きごたえを感じながらA面のラストに進む。最後はシャンソンの原曲をアレ ンジした「ラ・メール」である。冒頭のジョー・サンプルが弾くピアノを聴いてショッ クを受ける。「これほど立上りが速く、スムースにエコーが減衰していくというハイス ピードなイメージは聴いたことがない。こりゃ、すごいや。」と内心ではホールドアッ プである。そこで、ふと目を上げるとロックポートとアイドロンの魅力をサポートする 強力な存在がもう一つあったことに気が付く。ジェフロウランドのモデル9シリーズは 、初代モデル9とDC9、モデル9T、そしてモデル9Tiとすべての世代を聴いてき たが、この瞬発力と低域での重量感とテンションの両立には明らかに自らの成長を音で 表現しようとする寡黙なエンジニア、ジェフロウランド氏の思想を反映する実績を目の 当たりにした思いである。

 さて、次は82年に発表されたポール・マッカートニーのアルバムで「タッグ・オブ ・ウォー(tug of war)」である。このLPではA面トップのタイトル曲「tug of war 」をかける。最初は、題名のとおり綱引きをして力んでいる人々(もちろん英語の)掛 け声やうなり声が左右チャンネル各々から聞こえてくる。そして、やや左よりのセンタ ーにカッティングするギターが入り、ポールの「It's a tug of war」とヴォーカルが 入ってくる。いやはや、このギターとヴォーカルのリアルなこと。そして、この両者を 弦楽のピチカートが長いエコーをひいて取り囲み、奥行きを感じさせるアコースティッ クなオーケストラを背景にポールのヴォーカルが浮かび上がるのである。そのオーケス トラと位置を同じくしてミリタリー・スネアが小気味良いリズムを響かせ、バックコー ラスと一体となってフィナーレを迎える。この間にコーラスを含めた発音、日本語でい うところのサ行「shi」「thi」の部分や「It's a」の発声が実にスムースに繰り返され ていく。つぶれてしまい丸みを帯びた印象では鼻詰まりになるだろうし、高域に強調感 があれば毛羽立った質感でザラついて聞こえるかもしれない。しかし、アイドロンはな んの苦もなくスーッ、とサ行の発音をこなしてしまい危ぶまれるところなどみじんも感 じさせないのである。なぜロックポートがファイバー・レジンや鉱物含有のアクリル材 でモノコック構造のターテーブル・ベースを作ったか、エア・アイソレーションでシス テム全体を浮上させる機構を必要としたのか、そしてアーム自体もエア・ベアリングで フローティングさせるメカニズムを採用したのか。アンディー・ペイヤー氏の設計思想 がいたるところで再生音に反映され、アイドロンはその感性を映し出す鏡として見事な コラボレーションを展開してくれたのである。



第二章『comparison』

 さて、この辺で試聴するシステムにデジタル系を加えることにする。 トランスポートはエソテリックのP0、そしてD/Aコンバーターにはイルンゴのモデ ル705を使用する。実は、このイルンゴはロックポートと同様にセッティングによっ て音質が変化するので、事前のチューニングを必要とする。前述のようにラックに乗せ られる大きさではないので、スピーカーステージと同じレンガタイルの上に置き、オー ディオクェストの最上位モデルであるデジタルプロの五メートルでP0から信号を供給 する。そして、アナログ出力もトランスペアレントの最上位モデル、ミュージックリン ク・リファレンスの五メートルでコヒレンス2に接続する。ご存じの方も多いと思うが 、ケーブルだけでもイルンゴの半分くらいの価格で相当高価であり妥協のない選択をし ている。さて、イルンゴをそのままレンガタイルに直接置いて聴いてみる。「ウンッ、 ヴォーカルのフォーカシングが見事だ。」と、シャープで切れ込みのいい演奏に何の不 満もない。しかし、私としては他にも選択肢がほしかった。曲を弦楽アンサンブルに替 えて、ヴァイオリンの音に意識を集中して数回繰り返して聴いて音を記憶する。それか ら、イルンゴで三点支持を行なっている接地点に前述のJ1プロジェクトのシートを挟 んでみた。するとヴォーカルでのサ行の部分、ヴァイオリンでの高音階の部分などに変 化が起こるではないか。

 楠本氏は初めてモデル705を持ち込まれたときに、コンクリートの床に直に置かれ るのをきらって、厚さ一〇センチくらいの木材のベースを持参されていたことを思い出 した。「ハハァーッ、そういうことでしたか。」と、この実験をやってから納得ができ た。基礎がコンクリートで出来ており、そこに直接レンガタイルを貼り付けたステージ の上では、音に輝きが付き過ぎてしまい思わず目を細めてしまいたい衝動にかられるの だ。ちょうど、ロックポートのアーム・ハイトを限界まで下げたときのような印象とい って良いだろうか。まさに酷暑の夏、ギラつく太陽の日差しの中に飛び出したときのよ うな印象である。ところがJ1プロジェクトのシートを挟んだとたん、待ってましたと ばかりに用意していたサングラスをかけたようなものである。あるいは、日陰に駆け込 んで細めていたまぶたの力を抜いてほっとしたときのようなイメージと言えようか。そ して、これはロックポートのアームをぎりぎりまで上げたときの変化とも言えるであろ う。イルンゴはメタルスーツを着ているだけに、袖すりあう音もはっきりわかってしま うということだろうか。アルミのボディーが直接接地するイルンゴは、単純なことでは あるが置こうとする台、もしくは床の材質に微妙に反応してしまうのである。こうして 、私はJ1プロジェクトを敷いた状態を基準として試聴を始めることにした。

 比較するD/Aコンバーターは一流品と言われるものばかりである。マークレビンソ ンのNO・30・5L、チェロのRーDAC、ワディア9、そしてゴールドムンドのミ メーシス20と、どなたが見ても文句のつけようのないものばかりである。さしずめD /Aコンバーターの「ワールドカップ状態」とでも言いたくなるラインアップである。 しかし、最大でイルンゴの三倍もの価格差があるものまで含めて、私が感想を述べるに しても各々のメーカーのトップとすべてに面識があるだけに、安易な表現で序列あるい は順位を表現することはいかがなものであろうかと考えてしまった。自らの耳で判断し ようとしないユーザーは、雑誌などの記事に盛り込まれた比較級の表現をたよりにもの 選びをしようとする傾向があるのかもしれないが、私は自分の書いた文章にそこまでの 影響力を持たせるべきではないと考えている。結論から言えば「みな超一流のものばか りで、みな素晴らしい」のである。皆さんが自分にとって何がいいかを選べる環境を私 が用意しているのは、皆さんの自主的な判断で自分の好みを自己主張出来る選択肢を私 が提供したいと考えているからだ。従って、高価なD/Aコンバーターにランキングを 付けるような表現は極力避けて、私がイルンゴに感じた他社製品との相違点を中心に感 想を述べることにした。

 最初の曲は再三聴きこんでいる「JAZZIZA」を使うことにする。まず、冒頭の シーッ、パシッ、という効果音であるが、これは大変鋭い立上りの印象を与える。次に 入ってくるピアノが、これまた鮮烈なインパクトを感じさせる。そして、重みを感じさ せるタブラが気持ちいい。ザデのヴォーカルが聴こえてくるころには、瞬間的な音のサ ンプルに私の聴覚と記憶が既に反応を始めており、このほんの数十秒の演奏から頭の中 にあるデータベースに分析結果を問い合わせる感覚的作業が進行していた。この時点で イルンゴの指向性を感じとった私は、すぐさまもう一枚のディスクをかけたのである。 同様な音源として、エソテリックP0のテストでも使用したダイアナ・クラールの「ラ ブ・シーン」から「マイ・ラヴ・イズ」の指を鳴らすパッセージを聴いてみる。「あぁ っ、思ったとおりだ。」とこれでも同様な結論に至った。そしてクリスチャン・マクブ ライドのウッドベースが入ってきたところでイルンゴの持つ音のベクトルは大体つかめ てきた。ダイアナのヴォーカルが入ってくるときには、「ああっ、やっぱりそうだ。」 と、分析結果がカタカタと音をさせて頭の中でプリントアウトされていた。

 まず、イルンゴが放つパルシブな高域成分は聴くものに大変なスピード感を意識させ る。「JAZZIZA」におけるイントロのシーッ、パシッ、という効果音しかり、ダ イアナが弾く指の音しかりである。これを他の楽器で例えればこうなる。リードやマウ スピースがある管楽器は、タンギングの正確さとエネルギーが蓄積されずに瞬間に発散 される印象を明確にする。ピアノはハンマーがヒットする瞬間の立上りが大変急峻であ るイメージを明瞭に展開する。同じ弦楽器でもギターやハープのような指で弾くもの、 チェンバロのように弦を引っ掻くように鳴らすものは、弦がぐーっ、と引かれてテンシ ョンを高め、それを目の前で解き放たれたような弦が何重にも残像を残して振動してい る鮮やかさをイメージさせる。パーカッションであれば、皮が張り詰めているテンショ ンの高さと湿度の低い爽やかな空気に響く音をイメージさせるであろう。

 次に低音楽器の表現だが、「JAZZIZA」でのタブラの鳴りっぷりは、叩いた瞬 間の緊張感からスーッとひいていくエコーの最終部での空間的弛緩は見事としか言いよ うがない。つまり、音のエネルギーが放物線を描いて持ち上がり、そしてカーブを描い て減衰していくという、テンションの弛みを感じさせないということが大変大きな特徴 として感じられる。普通は人さし指と中指の二本指でピチカートする一般的なベーシス トが出す音量と同レベルの音を、クリスチャン・マクブライドは何と一本の指で弾き出 してしまうという。従って、ピッチする瞬間の明瞭度はより鮮明になり、強烈に引き絞 られた太い弦が目まぐるしい速さで弾かれる様子がタイトなベースの音を衝撃的に響か せる。簡単にいえば、重くて速いベースをイルンゴは得意とすることであろうか。ドラ ムではスネアーが打ち込まれる瞬間をフィルムに納めたとすると、スティックの動きが ブレながら五コマにまたがって写っていたものが、スネアーの皮の上にスティックが静 止してピタリと決まって一コマにしか写っていないような時間的テンションの高まりを 感じる。反応がよいのだ。

 そして、いよいよヴォーカルであるが、イルンゴで聴くザデもダイアナも、口元の表 現に要する投影面積が極めて小さく引き絞られるのだ。オーケストラで言えば、管楽器 の音像が指で指し示す空間の一転に凝縮される。オペラや声楽で複数のヴォーカルが同 時に発声しても、互いの顔面がオーバーラップする印象は極めて少なく、口元の高度な 分離感が今度は極めて深い奥行き感として、思わず聴く人は伸び上がってステージの奥 深さをのぞき見たくなる衝動を与える。そして、これからが大事なことであるが、音像 が絞り込まれたときにも決して痩せた音という印象を抱く心配はない。それは、十分過 ぎるほどのエコーと余韻を最後まで聴かせ続けてくれるからである。つまり、透明度の 低い濁った水の中では、強烈な原色の色彩感と必要以上の大きさを持たせないと対象の 物体は見えないし判断できないであろう。しかし、限りなく透明に近い澄んだ水であれ ば、微妙な中間色も陰影を含めて認めることが出来る。しかも、ごく小さな面積でも正 確な輪郭を見つめて識別することが出来る。このように、イルンゴは大変見事な透過性 をもつサウンドステージを聴く者の眼前に浮かび上がらせるのである。文句の付けよう がない。



第三章『eternally draw』

 さて、微妙に音質を変化させコントロールできるという共通項をロックポートとイル ンゴは持っているわけだが、デジタルとアナログ双方の最新モデルである両者を使って 同じ曲で聴き比べてみるという誘惑に抗しきれず共通のアルバムはないかと探し始める 。いまどきLPとCDで同じタイトルを探すのも難しく、おのずと古いアルバムからの 選曲となる。まず、リンダ・ロンシュタット「ホワッツ・ニュー(WHAT'S NEW)」から二 曲目の「I'VE GOT A CRASH ON YOU」をかける。次はアルディメオラ、パコ・デルシア 、ジョン・マクラフリンらによるスーパーギタートリオの名盤「フライデーナイト・イ ン・サンフランシスコ」冒頭の一曲「MEDITERRANEAN SUNDANCE」をかける。使った曲は 二つだけだが、演奏の中での着目点は複数あり、10回以上も同じ曲を繰り返し聴きこ んでしまった。世界的に見ても頂点を極めるような機材で、アナログとデジタルを聴き 比べたわけだが、ここにおける各々の特徴は既に前述したとおりの展開であった。ただ ただ素晴らしいの一言につきる。

 さて、私もこの職業とこの現場を通して年間では大変多くの方々と接するのだが、未 だにこのようなコメントを耳にすることがある。「やっぱりアナログの方がいい。この 音はデジタル臭い。」というものである。主義主張があってこそ趣味というものだから 、私も左様でございますか、と承るしかない。しかし、「それではデジタル臭いという のは、一体どういう音なんですか。」ときいても答えられる人はいない。先入観と既成 概念に支配されているような気がしてならないのである。その証拠に「やっぱりアナロ グはいいねぇ。」と言えば「そうでしょう、そうでしょう。」と相の手が必ず入る。も しくはアナログを褒めたたえても反対意見を述べる人はまずいないという安心感と、オ ーディオの達人的な貫禄を自己主張する際に重宝な一節なのである。なぜならば、これ ほど高級オーディオに囲まれている私の環境においても、「デジタルはいいねぇ。こり ゃアナログ臭い音だ。」と言われた方はただの一人もいないのである。つまり、いつの まにかアナログ礼賛デジタル批難の風習がオーディオの趣味世界に根付いてしまってい ると言えなくもないのである。

 1947年アメリカのコロムビア社が9年の開発期間をかけてLPを発表した。19 24年にはSPにも電気吹き込みが確立され、ハイファイという言葉に支えられたSP は、このLP発表以降も生きながらえてきた時代があったはずである。そして、195 0年代後半にステレオLPが登場するわけだが、CDが登場してから10数年たった現 在と同じように、当時も「SPの音は良い。LPは何かクセがあるぞ。」みたいなやり 取りがあったのだろうか。音楽の記録媒体に新規格が登場したとき、旧規格で思い出深 い多感な青春時代の音楽を楽しまれてきた人たちは、人生のひと時代に思い描いた憧れ とロマンをレコードと再生装置に封じ込めてしまったのではないだろうか。そのような ロマンチックな人々は、封じ込められた記憶を呼び起こすキーワードとして、前述のよ うなアナログ礼賛の言動を使われているような気がしてならないのである。

 そして、興味深いのは、デジタルに否定的な方に、それからしばらくの時間私がここ で演奏するCDによる音楽を聴いていただくと、「CDもいいもんですね。」と意趣替 えをされて前言撤回にいたる方が八割以上になるというのも事実である。ということは 、その方がこれまでに聴かれたデジタルの音で、魅力的な音楽を聴いていなかったとい うことになる。色々な店、あるいはオーディオフェアーなどのイベント、そして本腰を 入れていなかったご自宅のデジタルシステム。何が原因だったかということをいまさら 考えても仕方がない。圧倒的多数でソフトがデジタル化されてしまった昨今、将来にお ける音楽鑑賞の楽しみを考えても、良質で納得のいくデジタルとつきあっていかねばな らないであろう。

 私は何を言いたいのかというと、LPの方がCDよりいいとかデジタルはアナログを 上回るとか、アナログは成熟していてデジタルは未熟だとか、いずれかに勝敗や上下関 係をつけることに、何の意義も実りもないということなのである。〈永久的引き分け〉 状態なのである。もう少し自分本意な表現を借りるならば、個々人が認める価値観でア ナログを褒めたたえるのは大いに結構なことなのだが、そのための手段としてデジタル を引き合いに出すのは遠慮すべきではないかということである。技術革新によって、私 たちは便利で優秀な道具をもう一揃い持つことが出来るようになった。この道具は同じ 目的のために作られた仲間なのだから、自分が選ばなかった他方の存在も認め評価しあ うような姿勢を私は広めていきたいと思うのである。

 さて、本題に戻ってロックポートとイルンゴの競演であるが、本質的に何かに欠ける とか不足するという欲求を催すことのないレベルであることは間違いない。しかし、以 下に象徴されるような個性がアナログとデシタルの各々に存在すると考えられるのであ る。それは、次のようなシミュレーションを頭の中でイメージすることで、おそらく理 解して頂けるのではないだろうか。まず、皆さんの部屋で普段のリスニングポイントに 座り、正面のスピーカーをそのまま写真に納めたとする。そして、そのフィルムから四 つ切りでもいいしA4サイズでもいいし、とにかく大きく引き延ばしたプリントを作る のである。そして、それを目の前のテーブルに置いてじっくりと眺めて頂く。次に、二 種類の砂糖と一本のスプーンを用意する。砂糖の一つはごくありふれた白い精製糖であ る。ビニール袋の表面から指で押してみると、抵抗感があり出来たくぼみは元に戻ろう としない独特のしっとりした質感のアレである。もう一つの砂糖はグラニュー糖である 。サラサラした質感はビニール袋を持つ手の形にすぐになじんでしまうあの感覚である 。さあ、これからが面白い。テーブル上のプリントには左右二つのスピーカーが写って いる。センターに定位するヴォーカルの口元の大きさをイメージしながら、スプーンで 各々の砂糖をすくいとり、砂糖を少しずつ擦り落としながらスピーカーの中央に音像の イメージを白い小山にして形作るのである。

 グラニュー糖の小山は、どんなに慎重にゆっくりと擦り落としても、ちょうど砂時計 の砂のようにサラサラと流れるように山は崩れ広がってしまう。テーブルをコトリと動 かそうものなら、その小山の裾はパッと拡散したように白いグラデーションが周辺に飛 び散っていく。私が思うに、このようなイメージがアナログの音なのである。それでは 、デジタルの音のイメージはというと、もう一つの精製糖であろう。スプーンですくい あげた形は大きく崩れることはなく、スピーカーの中央に落とすと山の形はけわしく屹 立した形になる。ちょうどグラニュー糖は富士山で精製糖はアルプスという例えが出来 ようか。または、グラニュー糖は乾いた砂場で砂山を作ろうとするのだが、一生懸命高 くしようとしながらもサラサラと流れていく砂に悪戦苦闘しているイメージとも言える かもしれない。精製糖は、それに対してこってりとした土を塗り固めながら作った山と も言えようか。いずれにしても、写真の真ん中に出来た白い山を上から見下ろせば、私 の言わんとしているイメージをつかんで頂けるのではないだろうか。同じスプーン一杯 の砂糖であっても、上から見た山の面積はアナログと例えたグラニュー糖の方が拡散し て広く見える。言い替えれば、音像の核となるエネルギーが分散してしまう。しかし、 その分散の中に独特の雰囲気をかもし出すグラデーションの連続性が心地よさを生むの であろう。そして、対照的に上から見たデジタルのアルプスは、面積は小さくなるが、 山の頂上における標高は富士山を上回るエネルギーの集約をイメージさせ、ヴォーカル の口元がキリリと引き締まりピンポイントの音像を展開するのである。しかし、ここで 誤解があってはならない。いかにアルプスの斜面が急峻で上から見た面積が小さく凝縮 した音像を結んだとしても、山である以上は広い裾野を持っていることは事実である。 私が思うに、富士山であってもアルプスであっても、この広大な裾野は楽音のエコーで あり余韻であると例えられる。従って、私が各コンポーネントに求めるのは、この裾野 が平地にいたる斜面の最後までいかに正確に描いてくれるか、つまり余韻の最後の一滴 までいかに聴かせてくれるのかと言うことなのである。

 このようなイメージを思い浮かべてみると、ロックポートもイルンゴも大変すばらし い景観を聴くものに見せてくれる。平地から山を見上げ斜面がここから始まるという登 山口から、遥かなる山の全景を大パノラマで見せてくれるのである。ただ、目指す山が 富士山であろうとアルプスであろうと、オーディオの粋を極めようとする音のクライマ ーであれば、どちらの山も言語に尽くせぬ美しさを感じるのではないだろうか。ここに 至っては、音楽とオーディオを愛好するものに挑もうとする山の形状で是非を問うても 意味はないのではないだろうか。昔から言われている登山の動機を言い表す言葉で「そ こに山があるから。」という名言が思い出される。アナログであろうがデジタルであろ うが、さしずめ私たちであれば「そこに音楽があるから。」という一言で締めくくれば よいのではないだろうか。



第四章『extra recommendation』

 これまでに述べてきたアヴァロンのアイドロン、ロックポートのカペラ2、イルンゴ のモデル705と、話題作が集中してきた頃と相前後して再びB&Wのノーチラスが私 のもとにやってきた。6チャンネル独立入出力を可能とし、総合出力1100wという 異色の新製品、ジェフロウランドのモデルMC6のプロモーションのため、4ウェイマ ルチであるノーチラスの3ウェイを一台で担当する絶好のコンビネーションを実演する ためである。その後の展示スケジュールも決定しているため、このノーチラスは買い手 がつき次第に納品してしまう予定であった。そして、98年6月に販売になるステレオ サウンド誌No,127に掲載する当社の広告ページに、アイドロン、イルンゴ、エソテ リックP0、などと一緒に当フロアーの写真を撮影し、これら新製品をアイドロンとノ ーチラスで聴けるという内容をアピールする広告原稿を提出したのである。ところが、 私が予想したよりも早くノーチラスに惚れ込んでくださるお客様が現れ、6月1日には ノーチラスを納品しなくてはいけないことになってしまった。しかも、この他にも二人 がノーチラスの導入を検討されるといううれしい誤算があり、一月で3セットを販売し てしまったのである。これで私は発売以来オーナー14人のもとへノーチラスを嫁がせ たことになり、日本における(世界的に見ても?)ノーチラス販売のタイトルホルダー になったのではないかと自負している。しかし、ステレオサウンド誌の広告原稿を提出 してしまった後だけに、広告内容に虚偽があってもひんしゅくをかうことになってしま うので、新品のノーチラスを1セット開封し再び展示のラインアップに加えることとな ってしまった。従って、今回ご紹介したイルンゴやロックポートを組み合わせて、ジェ フロウランドの最新アンプを駆使したノーチラスが聴けるという夢のようなシステムを 七月末日まで堪能することが可能となったのである。98年夏、全国のみな様に是非ご 来店をお勧めする。

 さて、ノーチラスに関しては、これまでに語り尽くした感があるのだが、それ自身を 語らずとも依然としてノーチラスの大きな特徴と言えることがある。それは、他のコン ポーネントや使用環境などに対する大変デリケートな反応の表れ方である。モニター・ スピーカーというのはスタジオなどで業務用として使われるものであるが、ノーチラス も使用されるオーナーのテクニックや環境に対するモニターとして、いわばシステム全 体の鏡として微妙な変化を克明に映し出してくれるのである。そのたぐいまれな能力を 利用して発見されたのが、当フロアーにおける電源のコンディショニングであった。す でに数年前から電源にも気を配り、一部では信濃電気のハイパーレギュレーターも採用 しているが、このフロアーでは全面的にアメリカAPI社のパワーウェッジを採用して きた。そして、この度大幅なモデルチェンジを行なった同社の新製品ウルトラシリーズ のトップモデルULTRA116(定価36万2千円)を導入し、その最初の試聴でノ ーチラスが大変明確なモニター役を果たしてくれたのである。このULTRA116は 従来の床置き台形の外形から、幅44.5センチ、高さ14センチ、奥行き32センチ 、とコンポーネントスタイルのデザインに一新されラックマウントが可能となった。重 量も30kgを超えており、すべてのアウトレットにアイソレーション・トランスを独立 して搭載するという単なるモデルチェンジではなく、大きくグレードアップを図った設 計の周到さがうかがえるのである。基本的には、このパワーウェッジはACコンセント からのコモンモードノイズと接続する各機器間のアイソレーションを目的としたコンデ ィショナーであり、アクティブ型の信濃やCSEのような電源波形の整形やレギュレー ション効果を狙ったものとは違う。しかし、数年前の発売当初から電源環境を整備する 大げさではないツールとして、パワーウェッジは使いなじんできたものである。

 ノーチラスを駆動するパワーアンプは前述のジェフロウランドとして、プリアンプも 同社のコヒレンス2、D/AコンバーターはマークレビンソンのNO,30.5L、ト ランスポートはP0である。このプリアンプからフロントエンドに関しては、従来のパ ワーウェッジ116から電源を取っていたのである。曲はダイアナ・クラールの「ラブ ・シーン」から「マイ・ラヴ・イズ」を使用した。まず、単純にプリ、D/A、トラン スポートと順番にULTRA116に差し替えていった。この時の三段変化には大変興 味深いものがあった。聴こえてくる楽音の解像度が段階を追って向上してくるのが明ら かに認識されるのである。こんな例えではどうだろうか。小学生が鉛筆で書き取りの練 習に真剣に取り組んでいる。最初は丸まった芯で書き始めたものの、画数の多い漢字に なると線と線の間がつまってしまい、鉛筆を削って再び書き始める。それでもあきたら ない子供は、さらに芯を削って線を細く書けるように芯を削ることに集中する。同じノ ートに書かれる文字の線が次第に細くなって判読しやすい字体に変化していく様を見て いるようなものである。従来の116でさえ使用前使用後の違いは明確であったのに、 同じパワーウェッジでありながら、これほどまでに違いを見せてよいのだろうかと、し ばらく唖然としてしまった。このULTRA116のリアパネルを見ると、個々にアイ ソレートされた120Wのアウトレット六個と、パワーアンプに使用する1500Wの アウトレット4個が装備されている。私が次に興味を持ったのが、このアイソレートア ウトプット6個の上にグランド接地が選択できるように小さなトグルスイッチが装備さ れていることである。このスイッチにはノーマル、フロート、リファレンスの3ポジョ ンがあり、このポジションを切り替えて音を聴いてみたのである。ノーマル・ポジショ ンとは、出力のアウトプットフィルターの前段階に内蔵するアイソレーショントランス の二次側でニュートラル(コンセントの差し込み口で平行するスリットの長い方)側を シャーシーアースに落とすポジションである。フロートは文字通り一次側、二次側とも に一切のアースを取らないということ。リファレンスポジションは、二次側の真ん中か ら中点タップを取り出し、これをアースに落としている。実は、輸入元からぜひこの違 いを聴いて欲しいと言われていたのだが、本当のところは半信半疑であった。コモンモ ード・リジェクションを得るということとアイソレーション効果だけで、もうパワーウ ェッジの音はわかっている、という認識であったのである。「忙しいのに、こんなこと で時間を取られたんでは参っちゃうな。」と、内心ではブツブツ言いながら、これっぽ っちの期待感も持たずにスイッチを切り替えた。「こんなスイッチはフロントに付けれ ばいいのに・・・。」と、愚痴を言い終えないうちに始まった曲のイントロを聴いて一 瞬思考回路の動きが静止してしまった。「ちょっと待ってよ。」と、もう一度ラックの 後ろに回り込んでスイッチを切り替える。もう一度「ちょっと待って。」を連発する。 「こんなに変わるんだったら、普通のコンセントから電源を取ってもらっているお得意 様に何て言い訳したらいいんだ。」と言葉が続く。「申し訳ありませんが、お客様のお 聴きになっているシステムの音は本当の音ではありません。」とでも私に言わせたいの だろうか。

 一般家庭では色々な状況の違いがあるので一概にはいえないが、少なくとも前述のノ ーチラスを使ったシステムではこう聴こえたのである。まずノーマルポジションでは、 一眼レフのカメラをサッと新しい被写体に向けた瞬間にファインダーに写る映像をイメ ージさせた。ピントが合っていないので被写体の輪郭はダブり、投影面積も大きくなり 色彩感も滲んでしまっている。そして、レンズに指をかけてフォーカスを合わせようと するアクションを起こして二、三秒経過した途中段階がフロートのポジションであろう か。先程よりはいくぶん像が表れてきて被写体の面積は小さくなりつつある。でも、ま だ続きがあることを期待しないと納得できない映像である。さらに数秒間の時間をかけ てレンズの調整が戻したり行き過ぎたりを繰り返し、やっとジャストフォーカスが得ら れた状態がリファレンスポジションと言えよう。輪郭は明らかに一つのラインに集約さ れ、隣り合う色同士の色彩感も明確な分離を見せる。被写体の後方に伸びていた影もし っかりと認識できるようになり、楽音に例える被写体にピーンッとテンションが蘇って きたようである。私はリファレンスポジションの音を聴いて思わずうなってしまった。

 「これはまずい。」とにかく私は、このフロアーで試聴するハイエンドオーディオの デモを真実一路で解説し販売をしてきた。つまり、私がセッティングし私が料理したシ ステムの音を、目標としていただく音の商品見本として価値観を理解していただき販売 してきたのだ。「この音はいいですね。それでは、これを買いましょう。」と日々実演 販売をしてきたのである。そして、最も肝心なことは私は嘘をつけないということであ る。従って、私が実演した音楽を聴いて、「素晴らしいですね。」と、気に入ってくだ さったすべてのお客様にこう言わなければならない。「ただいまの演奏はパワーウェッ ジのULTRA116を使用しております。」と・・・。

 オーディオにおける切り口と視点は大変多岐にわたるものがある。システムのエネル ギーを供給するおおもとの電源によって、システムの最終的な結果であり出口であるス ピーカーの反応が大きな興味を引き起こす。逆に言えばスピーカーという端末が優秀で あるということが、音声信号が直接流れない電源によって証明される。何かの対象物を 分析するためには必ず対象物以外のコンポーネントを使用しなければならず、単一商品 の絶対性を示すことは不可能に近い。トランスポートとD/Aコンバーター、プリアン プとパワーアンプ、スピーカーとパワーアンプ、レコードプレーヤーとフォノイコライ ザー、あるいはカートリッジとフォノイコライザー、両極端の事例では前述の電源とス ピーカーのように必ず第三者の存在を通して音を判断せざるを得ないのである。この複 雑に連鎖する相関図を理解するには、ただただ経験しかない。しかも、評価したい対象 と、それを機能させるためのコンポーネント、そしてヒアリングする人間の感覚と、こ の三者が高いレベルになければならないだろう。私のフロアーはしばらく前にH・A・ L(ハイエンド・オーディオ・ラボラトリー)と呼称を変えた。研究所なんて売場のイ メージに合わない。とする意見も一部にはあったのだが、この随筆を長年ご愛読頂いて いる皆様には私の真意をご理解頂けるものと考えている。ユーザーよりも広範囲な知識 と経験をもって商品を研究する。作る側の理論と感性を理解する。そして、使う側の感 性を理解した上で、世界的な視野と情報量を駆使して適切なオプションを提示する。私 が考えるビジネス面での使命はまさにH・A・Lというネーミングに合致するものだろ う。この姿勢があってこそ、ユーザー一人一人の立場になっての適切な販売が可能にな るものと私は信じて疑わない。同じ趣味、同じ課題、同じ志向や研究対象をもつ人々が 集うことを「倶楽部」という。そして、それを趣味という範疇で楽しみながら、多くの コンポーネントとユーザーが集うということで「美音倶楽部」という今回の主題を思い ついたのである。H・A・Lのもう一つの意訳が「美音倶楽部」である。数多くの最高 レベルのコンポーネントと、最高レベルの情熱を持つ人間が集うこの倶楽部は随時新規 会員を募集している。そして、その入会資格はたったひとつだけ。ミュージック・ラヴ ァーであること・・・。      【完】


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