第五十話「Made in Japanの逆襲」



プロローグ



写真 1:
サンクトペテルブルク歴史地区と記念物
ロシア連邦北西部,ネバ川がフィンランド湾に注ぐ河口部にある人口480万人の大都市サンクトペテルブルク。 市内を東西に流れるネバ川。その左岸に広がる旧市街を「モイカ」、「フォンタンカ」、「グリバエードフ」の三水路が走り、 “ロシア一の美しさ”とたたえられる「ネフスキー大通り」と交わった後、フィンランド湾へ注ぐ。 ロシアをヨーロッパの絶対主義諸国とならぶ強国にした皇帝ピーター1世。(在位1682-1725)すなわちピョートル大帝が1703年に建設し、帝政ロシアの宮廷文化が花開いた古都である。 十八世紀にピョートル大帝が先進文明を招き寄せる欧州への「玄関」として築いたこの街は、市場化の流れの中でソ連時代にも増して外国人旅行者を引き付ける大観光拠点となっている。 第一次大戦を機に1914年ペトログラード、レーニンの死後1924年にはレニングラードと改称され、そしてソ連崩壊後の1991年、帝政の古き良き時代を偲ぶ当時の新市長が 再びペテルブルクの旧称に戻したというエピソードを近年アメリカ人作家の小説の中で読んだことを思い出した。ご存知のように近代史において後進国といわれたロシアは、 皇帝専制政治の打倒から世界最初の社会主義政権の樹立までの連続的な革命を経ているが、その舞台となったのもここサンクトペテルブルクであった。 レーニンの死後ボルシェビキ(旧ソ連共産党の前身。マルクス主義の立場に立つロシア社会民主労働党が1903年に組織問題をめぐって分裂したとき,多数をしめたレーニンの一派。 ロシア革命の次の年の1918年にロシア共産党と改称した。ボルシェビキは多数派の意。)の台頭とともに実権を掌握したスターリンの恐怖政治が始まるが、 その血の粛清から多くのロシア人が祖国からの脱出を図ることになる。そして、ここサンクトペテルブルクは帝政時代から様々な文化が花開いていたが、 それを象徴するもののひとつにかつての帝室マリインスキー劇場がある。ソ連時代にはキーロフ劇場と呼ばれていたので、今でも海外などではそのほうが通りがよい。 劇場の内装でさえボリショイの「金」に対してキーロフの「銀」、同様に「赤」に対して「青」と非常にライバル意識があるとされたが、 近頃両者のバレエが相互乗り入れ公演をしたとかで話題になっている。ロシアの古典バレエやオペラの多くはここで初演されている。  さて、このマリインスキー劇場で踊ることを夢見ていた十代の少女エリアナ・パブロバはロシア革命の動乱に巻き込まれ、シベリア、満州、上海、神戸、横浜・・・と流転を続けて行く中で、 母や妹を守りながらたどり着いたところが鎌倉市七里ヶ浜である。 。



写真 2:
現在のマリインスキー(キーロフ)劇場
 稲村ヶ崎を見晴らす道沿いに日本で最初のクラシックバレーの稽古場を作り活動を開始したのだが、現在では「日本バレー発祥の地」としてモニュメントが建造されているが、 そこには次のような言葉が掘り込まれている。
「エリアナ・パブロバは大正九年動乱の祖国ロシアを逃れて来日。昭和二年この地にバレエスクールを建てたエリアナは自分自身の舞台活動を通じて日本にクラシックバレエを紹介するとともに、 多くの舞踊家を育て日本バレエ界の基礎づくりに貢献した。第二次大戦後日本のバレエ界の発展を支えてきた人達の多くはパブロバの薫陶のもとに育った。 昭和八年日本に帰化。霧島エリ子を名乗ったが昭和十六年軍属として日本軍慰問旅行の途中南京で戦病死。鎌倉市は市葬をいとなみのち靖国神社に合祀された。 母ナタリア妹ナデジタはエリアナを輔けエリアナの死後その仕事をついだ。ナデジタは昭和五十七年この地で没した。 昭和六十一年十一月吉日 エリアナパブロバ顕彰会」このようにロシア革命が日本にもたらしたものが意外にも今日のクラシックバレエであったことを知る人は少ないだろう。 彼女らの育てた弟子たちは1930年代、40年代に活動を始めた。その基礎の上に、終戦直後からバレエは急速に普及していく。 まだ東京都心にも焼け跡が広がっていた1946年(昭和21年)に帝劇で『白鳥の湖』が一ヶ月間にわたって上演されたが、これが戦後の日本のバレエの出発点となった。 そう、ピオトル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilych Tchaikovsky/1840-1893)作曲になる『白鳥の湖』である。

 さて、話しはサンクトペテルブルクに戻るのだが、エルミタージュ美術館などをはじめとして帝政時代から様々な文化が花開いた都市であったことは前述の通りだが、 ここサンクトペテルブルクには現在三つのオーケストラが存在している。1931年設立のサンクトペテルブルク交響楽団、1882年設立のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団、 そして最も歴史ある1860年設立になるキーロフ歌劇場管弦楽団である。そして、チャイコフスキーの三大バレエの初演は1877年3月にモスクワのボリショイ劇場で行われたランジンガー版 (振り付け)の「白鳥の湖」であった。そして、その第二作目が「眠れる森の美女」であり、プティバの振り付けによって1890年1月に上演されたのが、 ここマリインスキー(キーロフ)劇場であった。その時のオーケストラも当然キーロフ歌劇場管弦楽団ということになる。  チャイコフスキーは前作「眠りの森の美女」のまずまずの成功に気をよくして、2年後再びマリウス・プティパからの依頼で新作バレエを作曲する。 このバレエはドイツの作家ホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王様」という童話をデュマ(息子の方)がフランス語に翻案したものを元にプティバが台本を書き、 その台本を見ながらチャイコフスキーが曲を付けたものだ。ところが実際に振り付けをする段階でプテイパは病気でダウン。彼の弟子のイワノフが振付けを行うことになる。 この振付けにはプテイパも十分満足していなかったと言われている。そして、マリインスキー劇場での公演も一応成功するが、音楽の評価が高かったのに対して、振付けに関しては退屈、 との指摘が多かったようだ。当時の演出では前半はマイムによって物語がどんどん進行し、後半は物語とは関係ない踊りが延々と続き、 主役の二人(こいぺいとうの精と王子)は最後にグラン・パ・ド・ドゥを踊るだけ、というものだった。



写真 3:
マリインスキー劇場内部(1986年撮影)

そして、この作品が生まれ変わったのは1934年マリインスキー劇場改め、キーロフ劇場のワシーリイ・ワイノーネン振付けによる版からだという。 ワイノーネンは前半の主人公の少女クララを大人のバレリーナに踊らせ、くるみ割り人形は王子に変身することにして、この二人に最後のグラン・パ・ド・ドゥを踊らせるということで、 前半と後半に一貫性を持たせた。
その後の「くるみ割り人形」の振付けは一般にこのワイノーネン版がベースになっている。



写真 4:
フェストシュピールハウス
さて、時代は変わり、ところも変わってドイツきっての高級温泉保養地Baden-Baden 〔ドイツ語で、「baden」とは風呂に入ること〕(バーデンバーデン)に 1998年に建設された
オペラハウスがフェストシュピールハウス(祝祭歌劇場)であるが、 同年の8月になんとあのキーロフ歌劇場管弦楽団を呼び寄せてワレリー・ゲルギエフ指揮のもとに録音された一枚のCD「くるみ割人形」The Nutcracker (PHCP-11132)が、 今回のテーマである新製品に対して私の驚きと感動を伴って導いてくれたのであった。

2002年4月26日ゴールデンウィークを目前に控えた私のフロアーに国産としては数年ぶりという新製品が持ち込まれた。
過去にはExlusive C-7a & M-8 , DENON PRA-S1 & POA-S1 , Victor ME-1000 , LAXMAN C-7 & B-10 , SANSUI C-2301P Vintage & B-2302Vintage GOLD , SONY TA-RE1 & TA-NR10などの、 錚々たる国産ブランドのアンプを当時の試聴室に持ち込んで、数々の海外製ハイエンドスピーカーを鳴らしたものだが、残念ながら満足できるものはなかった。 ご記憶の方も多いと思うが、これらの製品たちもプリアンプだけでも100万円以上、パワーアンプとセットにすると高いものでは500万円以上という価格であった。
しかし、今回私が取り上げた新製品marantz 『SC-7S1』 \700,000 , 『MA-9S1』 1台\650,000 はセット価格にしても200万円と 過去に私が体験した国産アンプに比べても大変リーズナブルな価格設定なのである。 私は正直に申し上げて過去のmarantzブランドのアンプについては、自分のフロアーで演奏したいレベルという評価を与える事が出来ず、 今回の新製品についても実際に試聴してみるまではまったくと言ってよいほど期待はしていなかったのである。
それは教訓でもあり悪しき既成概念であったのかもしれない。この「くるみ割り人形」の序曲を聴くまでは…!?