GUEST & TALK

 

< Guest & Talk Vol.12 >

私達の仕事は音楽を再生する道具としてのオーディオ機器を扱いご紹介させて頂くこと、その殆どが趣味製品となり人の好みの数だけ製品も組み合わせも存在するような世界。これは私達の業界にだけ言えることではなく趣味の世界には共通してあるもので、本屋に行っても「趣味」と区切られた棚にはそれこそ様々な専門誌が並びコチラの食指をあらゆる角度から揺さぶってきます。オーディオと一言で説明するとその範囲はあまりにも広いのですが、その大海にまだ誰も知らぬ小さな島を見つけるかのように、音楽を再生する道具としての「趣味に極まった製品」をつくる逸材とその姿を見つけ、私達の元へ届けてくれる方がいます。その方々の絶え間ぬ努力によって私たちは愛聴盤にさらなる感動を体験し、これから出会う未知の音楽、演奏に期待し心踊る毎日を過ごせるのです。

今回は歴史ある輸入商社のひとつ株式会社ノアの創業者野田さんにお話を伺う機会を頂きました。株式会社ノアと聞けばすぐにいくつものブランドが頭の中に巡ると同時に数々の名機、その姿かたち、さらにはそれらが奏でる音までもが聴こえてくるようです。特にスピーカーでは Sonus faber、この名前を出さずに話は進められません、スピーカーとしてだけではない工芸品の美しさ、音楽の持つ情熱と瞬間をかたちにしたような佇まい、その姿からイメージし聴こえる音との整合性。初号機から変わることのないブランドイメージが続く事、同じように熱烈なファンが今もなお増え続ける事も、遠くイタリアの匠と熱心にやり取りを続けてきてくれたお陰なのです。華やかに見える世界でも実のところ、いや想像すれば容易いのですが結局のところ仕事を進めるのは人と人。名品を創り出す世界各地の職人相手にスムーズな話の進行なんてある訳ないですよね、言葉も違えば文化も違う。それらをかき分けて相手の心に手を伸ばし、掴み、長年の相棒とまでなり得る互いの信頼関係を作り出す手腕の持ち主、野田さんという方は一体どのような人なのだろう。仕事柄、野田さんにお会いする機会はいくつもありますがこれだけの時間を頂いてお話を伺うのは当然ながら初めてのことで、緊張しました。そんな心持ちがバレていたのかどうかは分かりませんが、ゆっくりと優しく時にあの頃を思い出すようにふと言葉を止めて、また話を進めてくれる時間が楽しくて仕方ありませんでした。私は写真を撮ることもインタビュー時の役目のひとつなのですが、野田さんの話があまりにも興味深く楽しいものでしたのでその場から動くこともせずただただその話に聞き入ってしまいました。私の仕事としては失格ですが、非常に面白い内容です。そういう意味でも今回は内容濃い文字情報中心でのお届けとなります。


GUEST:株式会社ノア 特別顧問 野田 頴克さん


 


柴田:仕事の醍醐味って、やっぱり人との出会いだったりするよね。

佐藤:うん。すごく面白い人とたくさん出会うことができた。

柴田:というわけで今回はオーディオ輸入代理店の老舗、株式会社NOAHと株式会社ARK Gioiaの創始者である野田頴克元社長に会いに来ましたヨ。

佐藤:ガチじゃん。

野田さん:あの〜、話おもしろくなかったらボツにしていただいて大丈夫ですから。

佐藤:いやいやいや!本当にお話をきてみたいと思っていたんですよ。いかがですか?最前線でやられていた頃と比べてお仕事のリズムは?

野田さん:引退しようと思ったのは第一に自分の身体のことだったのですが、おかげさまでいまこうして動けています。でもそんなにいい気になってやっているわけにもいかないので、営業関係のことには口出ししないようにしています。ただ、外国とのやりとりとかね。

佐藤:旧知の間柄も多いわけですものね。

野田さん:ええ。あとは国内のメディア関係ですとか、少し時間をかけて後任へとオーバーラップしていければと思っています。やはり人間関係ですからね。

佐藤:野田さんは日本にこれからオーディオが入ってくるぞという、その創世記に深く関わったわけですけれども、そこでの体験を直接お聞きして、僕たちの経験していない時代の空気を想像してみたい、というのが今回のインタビューの動機でして、まずはその辺りをお伺いできますか?

野田さん:なるほど。分かりました。私がオーディオに関わり始めたのは、大学三年生の頃で、ちょうど東京オリンピックがあった年だったんですがね。その頃よくジャズ喫茶に出入りしたりしてまして、銀座数寄屋橋のペギーというお店に。で、そのすぐ近くに西銀座電気街というのがあって吉葉無線、角田無線、テレオンなんかが出店して電気関係だけでひとつのアーケードを作っていたんです。そこに当時ベトナム戦争真っ最中でもありましたので、アメリカの帰還兵、休暇兵なんかが遊びにきて、オープンリールデッキ、AKAIとかTEAC、カセットデッキだとNAKAMICHIだとか、そういうのを彼ら担いで帰るんですよね。ジャズ喫茶へ行く度にそういうところに通っているうちにテレオンの店長に「アルバイトしないか?」と。私も学校あんまり行かないで遊んでばっかりいましたから(笑)(お店にいながらにして音楽聴けるのか、面白いなぁ…)なんて、それがきっかけだったわけです。

佐藤:アルバイトをしていた頃は、スピーカーというとTANNOYとかJBLですか?

野田さん:いやいやいや。GoodmansそれからLowther、Wharfedale、EMI、そんな感じですね。それらのユニットを国産の箱に入れて組み上げるという。

佐藤:あぁ〜思ってたよりずっと昔でした。その頃オーディオは一般的に身近な趣味でしたか?

野田さん:いえ。当時はまだまだ本格的にオーディオが流行る前ですから、だから一般の人たちには行き渡ってなかったですね。

佐藤:青年時代には他にもきっと楽しい遊びがたくさんあったと思うんですけど、野田さんがその特殊な趣味としてのオーディオにハマっていく、音楽に惹きつけられていくのには何かきっかけがあったんですか?

野田さん:ええ。色々なものに興味があったわけですけど、テレオンでバイトする前は、高輪プリンスでプール監視員のバイトをやっていて、その時に、デューク・エリントン楽団が演奏旅行に来ていて、そのホテルに泊まっていたんですよ。昼間は彼らヒマですから、プールに遊びに来たりする。それでなんやかんやと仲良くなって話しているうちに「今日の厚生年金会館、遊びに来ないか?チケット?そんなもん関係ないから来いよ」と。

佐藤&柴田:うわあああぁ!そりゃあすごい!どんな人たちでした?

野田さん:ジミー・ハミルトン、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネルとかみんな気さくでね。席を用意してくれたし、楽屋にも招いてくれた。そしたらその楽屋でエリントンがパーマをかけてるわけですよ。存在感ありましたね〜。そして私に向かって「じゃあ聴いていきな」って、それでもうビックバンドの魅力に取り込まれてしまった。それまでオーディオは全然やってなかったんだけど、生演奏だけでなく再生音楽にも興味を持ち始めたきっかけだったんです。

佐藤:ひとりの青年の運命を変えるには十分すぎるというか、想像をはるかに絶する体験ですね。

柴田:そのアルバイトを経て、すぐに輸入商社を立ち上げられたんですか?

野田さん:先ほどのように、バイトやら遊びやらで、就職活動なんてなんにもしなかったんですよね。そこで、テレオンに出入りしていた輸入商社の今井商事さんから「卒業したらうちに来ないか?」というお話をいただいて、(ああ楽しいかもしんないなぁ)と思って、ご厄介になることにしたんです。初代社長の今井さんは、もともとBMWの最初の輸入代理店だったバルコム貿易にオーディオ部門があって、shureのカートリッジなんかをやってたんですけれども、そこから独立して三年目で、おひとりでやってらした。そこにお世話になって VITAVOX、Acoustic Research、AR、DYNACO、Spendor、なんてのを扱っていたんです。

佐藤:ここまでお話しを伺って、想像していた事とだいぶ違うのが、オーディオがこれからビジネスとして来るぞ!みたいな雰囲気や計算ではなくて、かなり個人的な体験に導かれるようにして、いつのまにか溶け込んでますね。

野田さん:言い換えれば、これがしたいというか、これをしようという確たることがなかった(笑)。オーディオの専門商社ってのは当時今井商事とエレクトリがあって、他は成川商会、大きいところでは丸紅、そういう総合商社の一部門だった。大手がやるにあたってはある程度のマーケットサイズがなければ、続けることができないわけですね。とにかく時間がかかる。手間暇がかかる。

佐藤:当時は今ほど国家間の通信技術は発達してなかったと思うんですが。

野田さん:大変ですよ。やりとりはテレファックス。穴の空いた紙が出てくる。

佐藤:パンチングカード!

野田さん:そうそうそう。当時は輸入するにあたって、外貨規制でドルなりポンドなりの上限もありましたら。輸入申請許可というのも簡単じゃありませんでした。しかもみんな船便ですから、航空便なんてもう高くてね。まず2ヶ月はかかる。船がついても今度は通関です。当時は国を挙げて輸出でしょ?輸入は罪だ、みたいな。国賊だ、みたいな。税関の人間とかに「こんなものがなんでそんなに高いんだ?」とか。それをいちいち説明に行ったり。

佐藤:あ〜いじめられるわけですね。

野田さん:もうほんっと。

佐藤:三蔵法師みたいに苦労しましたね。当時から現地に行って見定めるなんてこともしていたんですか?

野田さん:今井商事で働き始めてから、4年目ぐらいからですね。最初に行ったのはヨーロッパ、イギリスでした。ちょうど Spendor を取り扱い始めたところで、その頃はイギリスではハイファイニーズのオーディオショーとか、フランスだとパリのフェスティバル・ソンなんかがあって、欧米のオーディオ文化はかなり進んでいました。アメリカではCES。

佐藤:当時のCESはいまよりもオーディオ製品の占める割合が高かったそうですね。

野田さん:大きかったですねぇ。コンピューター関係なんて存在しませんでしたから。エレクトロニクスのなかでもウエイトが高かったですね。

佐藤:いわばオーディオが文明の最先端だった時代ですね。

野田さん:日本では1974、5年ごろから急激に変わり始めたんですね。日本オーディオフェアが何万人とお客さんを集めて、DYNACO、後にScandynaになりましたけど<A25>なんて、あれは大ヒットして足りない足りない、毎月コンテナいっぱいに入れても追いつかないという状態になりました。

佐藤:独立されたのはその頃ですか?

野田さん:1978年のことでした。今井さんのところで営業、開拓交渉、そういうことをやらせてもらって勉強することができて、そのなかでここはこうしたい、ああしたいというのが自分のなかに出てきまして、それでお話をして、独立したいと、NOAHをスタートさせました。

佐藤:柴田くん一歳(笑
いまやそんなに若かないのにね。アークも意外と古いんですよね。

野田さん:変遷があったんですけどね。82年かな?にスタートしてるんですけども。これはもともと別の業界の仲間たちと、やりたいことをやってみようという考えでスタートしたんですけれども、空中分解してしまいまして、一旦休眠会社にしてたんです。

佐藤:NOAHとして最初に扱った品物はなんだったんですか?

野田さん:Chartwellというスピーカー。このメーカーは当時ちょうど<LS5/8>を開発してBBCからもお墨付きをもらってたんです。それよりもう少し安いもので、<PM400>っていうモデルを選んで最初サンプル3ペアくらい入れて、評論家の岡先生、瀬川先生、山中先生なんかに聴いてもらって「いいじゃん、やろうよやろうよ」って感触が良かったんですね。それで(よしっ!)てことで資本金の大半をはたいて仕入れることにしたんです。それで船で着いて、通関終わって来たら、箱、ボロボロなんですよ。

佐藤&柴田:えっ!?

野田さん:開けてみたらみんな壊れてるんですよ。ユニットが中に脱落してゴロンゴロンしている。ほとんど全部壊れてる。それで連絡したら、とんずらしちゃってもう先方の会社ないんですよ。

佐藤:うわーッ!恐いッ!今こうしてお話ができてるからあれですけど。

野田さん:で、解決しなくてですね。(どうすんだこれ…終わった…)と思いましたよ。明日からどうしよう。なんとかお金に変えなきゃならない。っていうことで、大変な思いをして毎日毎日泣きながらなるべく無傷なものや、生きてる部品だけでもかき集めて、ダイナさんへ相談に行ったの。そしたら当時の角田さんと宮越さんが「分かった。全部買ってやるからそのかわり…」(笑

佐藤:悪魔の取引(笑
いやでも、この場面で野田さんがご商売を続けることができたおかげで、後に我々はたくさんの素敵な品物を皆さんに紹介することができているんですよね。

野田さん:ははは。当時は天使に見えましたよ。そんなわけで、最初の品物で大変苦労しましたが、また何か扱うものを探しに行かなくちゃならない、ということでフランスのフェスティバル・ソンに行ったら、その時にたまたまMichaelson & Austinの<TVA-1>というKT88を使ったトランスの大きなアンプを見つけて、これはケビン・オースティンとアンソニー・マイケルソン、彼は後のMusical Fidelityですけれども、あとアンプの設計はパラヴィチーニという若い三人がやっていた。

柴田:ティム・デ・パラヴィチーニ!

野田さん:それでこれをやろう!ってことで、ケビン・オースティンの会社を訪ねてロンドンまで。セビローストリートやニューボンドストリートって有名な洋品店街がありますけど、ケビン・オースティンはそこにある洋品店の倅で、そのお店の地下で作ってたんですよ。それから彼に連れられて地元のオーディオ店へ行った時に、たまたま鳴っていたスピーカーがなんだか妙にいい音していてですね、これはなんだ?と訊いたら、「これはね、BBCモニターの研究マネージャーのダドリー・ハーウッドが作っているスピーカーだよ」で、彼の名前のハーウッドと奥さんのエリザベスの名前を合わせてHarbethと。

柴田:Harbeth!

佐藤:それでは何を隠そう日本に最初にHarbethを持って来たのは野田さん?

野田さん:あっはい、そうですね。当時からBBCといえば<LS3/5a>なんてすごく良かったから、これは間違いないぞということで、直接会いに行ったらなんだか納屋のようなところで作っていてね(笑

柴田:オーディオってものすごい設備のなかで作っているイメージありますけどね。ガレージみたいな感じだったんですね。

野田さん:ほんとにそうですね。それで Michaelson & AustinとHarbeth のこのふたつでなんとか頑張るしかなかったんですが、おかげさまで軌道に乗ってくれて、それからパイオニア・エンタープライズから Thorens を引き継がせてもらったり、Counter Point を扱い始めたりと、やっていった。

佐藤:そして、それがこのあと野田さんにとっての最も重要なあの人物との出会いにつながっていくわけですね。


 


佐藤:オーディオを通じた様々な製品や人々との出会いのなかでも、フランコ・セルブリンとのそれは、野田さんにとって相当大きかったのではないでしょうか。

野田さん:ああ、一番大きかったですねぇ。フランコとの出会いというのは私の人生、オーディオだけではない私の人生のなかで本当にエポックでしたね。1983年。Thorens が100周年記念として reference を発表した時に、スイスで国際的なお祝いがあったんですよね。それに参加して…あの時は各国ディストリビューターはそれぞれの国の民族衣装を着て来い、なんて言われて(笑

佐藤:羽織袴で行ったんですか?

野田さん:そうそう。そこで色々な人と仲良くなっていくなかで、イタリアのディストリビューターと出会って「ミラノでオーディオショーがあるから来ないか?」ということで、行ってみることにした。当時イタリアにはオーディオ製品なんてなんにもないという時代でしたから、それまで行ったことがなかったんですよ。

佐藤:実際に現地を見てもそう思われました?

野田さん:ええ。やはり当時のパリやロンドンに比べると遅れているという印象でした。イタリアに入っている欧米のオーディオもすでに日本で出回ってるものばかりで、(これは長居してもしょうがないな…早く街に行ってうまいものでも食おう)と思って、出口に歩いて行ったら、通路の脇にポンと置いてあったスピーカーに目を奪われたんです。カメラの三脚のようなものに乗ったブックシェルフスピーカーだったんですけど、無垢の木の素晴らしい仕上げのエンクロージャーで、これが <Electa Amator> のプロトタイプだった。それで「これはどんなものなんだ?」って訊いたのがフランコとの最初の出会いだったんです。

佐藤:フランコ自身が、その場に自分の作ったものと一緒にいたわけですね?

野田さん:そうです。それで多分来年には完成するというので、出来上がったら是非知らせてくれと伝えたら、後日、木材と大理石を使ったスライド式で高さ調整のできるスタンドに乗った完成品の写真を送ってくれた。もうそれを見て「すぐに日本に送ってくれ!」と。これが最初で、結局それから30年以上の付き合いになっていきました。

柴田:前半のお話のなかで、海外とやりとりしていく上で、安定した供給の難しさというのがありましたけど、その点の信頼感も高かったんですか?

野田さん:あ、そうでもない(笑
品物はすごく手が込んでいるし、フランコは当時、歯科技師としての仕事をしていまして、工場…工場といっても納屋で、フランコの兄弟が持っている納屋の一角で作っていたんです。ヴェネツィアから内陸に50kmほどのところにあるヴィチェンツァのワイン畑の丘の上にある、もともと柱時計の木工細工を中心とした工房だったんです。だから空いた時しかできないので能率が悪い。急いでなんとかしようなんてことができる場所じゃない。ああ、やっぱりここじゃあなぁと思いました。

佐藤:家内制手工業ってやつですね。

野田さん:最初はイタリア国内販売もしていなくて、販売ネットワークが構築されていなかった。だから最初のお客さんは日本人だったんです。こっちも苦労しましたけど。ペアで当時¥700,000。ブックシェルフでそういう価格のものが売れるのか分かりませんでしたから。

柴田:売れ行きは順調でしたか?

野田さん:おかげさまで <Guarneri Homage> がヒットしまして。でも当時全然供給が足りないから、私は私なりの交渉の仕方で促すわけです。フランコの片腕だったチェーゼレ・ビブラックにしても、彼はビジネスも分かる人間だったんですけど、自分たちの作っているものをよく分かっていて、もっとたくさん作れば売り上げは伸びるんだけれども、粗製乱造だけはやってはいけない。とディフェンスしてくるわけです。だから世界で通用するモノにしていくには、誰かが尻を叩かないといけなかった。もっと回せもっと回せと。フランコにしてみれば、タフ・ネゴシエイターってことで、鬱陶しかったと思うんですけど、でもそういうことを本当に率直に言い合えたから、家族づきあいだったから、フランコが亡くなって、チェーザレもいなくなった今も、Sonus faber は最初の協力者としての私や代理店としてのNOAH、そして日本の市場を尊重してくれています。

佐藤:なんだか漫画家と編集者の関係みたいですね。しかし、それだけ野田さんが彼の作る作品に惚れ込んでいたっていうことなんでしょうね。

野田さん:もちろんそうですね。それから人ですね。ビジネス優先では、ない。やっぱりフランコはね。天才でしたよ。あんなに才能のある人はいなかった。音のデザイン。外観のデザイン。音と姿形をきちっと融合させてあのクオリティーに仕上げていくという。多くのメーカーがスピーカーの音響的な設計はするけれども、外観デザインは別の人がやったりする、しかし彼はひとりでそれが全部できちゃう。彼らの部屋に行くと、自宅の調度品や道具のひとつひとつが、モノやその置き方にいたるまで、たとえば机の上のちょっとしたペンなんかまでやっぱりかっこいいんですよ

佐藤:そういう暮らしのなかから出てくるのか、オーディオに対する生活の環境に入ってくる道具としての感覚はSonus以前、Sonus以後と言ってもいいくらいですよね。圧巻なのはKtemaとAccordoで、もはや普遍性をすら感じさせますよね。

柴田:どの角度から見ても美しい。音が聴こえてくる佇まい。

野田さん:フランコは途中で Sonus faber から離れたわけなんですが、その時も、大きな資本で手広くやっていくっていう、そういう生き方には自分はついて行くことができない、ということで引退したんです。本人はそのまま隠居するつもりでいたんですけれども、結局会う度に描きためたスケッチやアイディアを見せてくるんですよ。それで、どうするの?やるの?って訊くと「いやぁ、辞めて6年間は同じようなことをしてはいけないっていう契約があるし…隠居もしているし…でもどう思う?」って(笑。で、(ああ、これはやる気なんだなぁ、やりたいんだなぁ)と思って「やったら?」って言ったら「そうか!」って(笑

柴田:その言葉を待ってたんですね(笑

野田さん:そうすると Sonus側もフランコが何かやろうとしていることを嗅ぎつけるわけですよ。契約もあと2ヶ月もあれば切れるという状態だったので、それで当初Sonusブランドでの販売という前提で好条件のオファーをしたそうなんですが、フランコは話し合いはしたものの、やっぱり嫌だと断ってしまった。これには当時のSonusのトップも怒ってしまって、各ディストリビューターに対して、フランコの製品を扱わないでほしい、という御触れを出したんですね。

佐藤:感情的な対立までいってしまった。

野田さん:そうなんです。それで、こちらも実際にミラノまで行って一生懸命交渉したんですが、収まらない。それでこちらとしてもSonusを蔑ろにするつもりはありませんから、困ってしまって…じゃあ分かった。NOAHでは扱わないから…

佐藤&柴田:その手があったか!

野田さん:休眠会社にしていたArkを復活させてですね。Franco Selbrinを取り扱うことにしたんです。その時に販売店もオーディオ専門店に限定させていただいてですね。

柴田:物語は繋がってきますね〜。あらためて大切に売っていきたい品物です。発表から10年経ってもその価値が全く色褪せていませんよね。

佐藤:現在のSonusのデザイナー、パオロ・テッツォンとフランコとの師弟関係と職人としての尊敬というのは、当時の経営的な軋轢とはまた全然別のお話ですよね。

野田さん:そうですそうです。ステレオサウンド誌の211号にも出ていました通り、パオロはオーディオ好きで、音楽大好きで、最初に自分で使ったスピーカーが <Electa Amator> だったんですよね。その彼にとって昔は憧れだったものが、やがて実際の師として仰ぐ存在となり、そのスタイルを音作りの手法の段階から取り入れることで、フランコの音がパオロにはベースとなって流れている。感覚的に共通するものもあるのだと思いますが、世代や個人的体験のバックグラウンドの違いからくる全く同じではないパオロ自身の音も現れています。そのなかにフランコの味も残っているというのは、私にとってはとても嬉しいことですけどね。

柴田:いやぁ。こんなお話が聞けるとは思っていませんでした。

佐藤:そうかい?いやぁでも思ったより大変な話が多かったですね(笑)成功した人を見ると、なんだか思い通りにうまくやってきたのかな、なんて考えがちだけど。

野田さん:ははは。

佐藤:野田さんのお話を聞かせていただいたら、むしろ思い通りにならない事態に直面して、それを解決してきている。なんでそんな大変な思いをしてまでやってこれたかというと、それはきっと信じるべき価値を見つけたからで、その価値を信じられる仲間と守って行くっていうことがきっと報われるってことなんだと思います。だからきっと僕たちにも今後想像もしていなかったままならない宿命がふりかってくることでしょう(笑)

柴田:やだよー(笑)

佐藤:ただその時に、過去にも手放しで楽な時代などなかったと、それでも信じるものに賭ける価値というものがあるんだと思えれば、乗り越えていけるんではないでしょうかね。

野田さん:はい。やっぱり何かをひとつひとつ大切に丁寧に扱っていくことがみんなの幸せに繋がるんじゃないかな、と思いますね。

佐藤&柴田:お話が聞けて本当に良かったです。長時間お付き合いいただいてありがとうございました!


 


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